400thEpisode

風土と教育

富樫恒文

(庄内藩校致道館 統括文化財保護指導員)

士風の刷新は、教育の振興にあり
中興の名君 忠徳(ただあり)・忠器(ただかた)

表御門
「講堂入口の扁額」 致道博物館蔵

鶴岡市の中心地、市役所の正面に200年余の風雪に耐えてきた重厚な建物『庄内藩校 致道館』がある。東北地方に唯一現存する藩校建造物であり、国指定史跡になっている。
 藩校致道館の教育精神は、鶴岡の教育の原点になっているとともに、これまで庄内・鶴岡の教育風土を形づくってきた。

致道館の創設

1700年代後半、天下泰平が続き諸藩では武士の風紀が乱れた。庄内藩においても例外ではなかった。江戸の華美な風潮が、庄内まで伝わってきて、武士に似合わない華美を競い、文武の道を忘れた浮華軽佻な行動が見られ、士風の頽廃は甚だしかった。

庄内藩酒井家9代藩主酒井忠徳は心を痛め、郡代の白井矢太夫(やだゆう)に諮問した。その際、矢太夫は、忠徳公に「このようなことは恥を知らないことからしていることなので、すぐにはなかなか直らないでしょう。その時叱っても、また元に戻ってしまい、罪人だけが多くなってしまう。このような乱れを根本から直そうとするなら、時間がかかるけれども、学校を建てて教育の教えに頼るしかないでしょう。しかし、すぐにはよくはならない。藩の役人も学校の中から採用するようになれば、自然にこのような悪い風俗も改まるでしょう。」と進言した。忠徳、矢太夫、共に、「士風の刷新、有能な役人の育成は、学校を創設して教育の振興に努めるよりほかなし」と共鳴し、文化2年(1805)学問所を創設し、『論語』の一節「君子学んで以て其の道を致す」から「致道館」と名付けた。

当初は、鶴岡駅前通りにあったが、「政教一致の考え」から10代藩主酒井忠器は、文化13年(1816)鶴ケ岡城三の丸(現在地)に移した。

「庄内藩校致道館の図」 鶴岡市教育委員会蔵
講堂

致道館の教育

幕府が寛政2年(1790)、寛政異学の禁を出し、朱子学を正学にした。そのため、全国のほとんどの藩校では朱子学を取り入れた。しかし、庄内藩では儒学者荻生徂徠の提唱する徂徠学を教学にした。生徒の意欲の喚起、生きる学力の育成、まさに、今の個性教育に通ずる教育を重視していたのである。当時としては、画期的な学派を教学にした。忠徳と矢太夫の学識と指導力が影響している。

【被仰出書(おおせいだされしょ)】

9代藩主酒井忠徳が致道館創設にあたり被仰出書を出した。その中には、「人にはもって生まれた得手と不得手があるから、その人の得意なところを伸ばすように先生方は指導しなさい」など、開設の目的、個性の伸長、人材の育成、教育の順序等、徂徠学を基にした内容が細かに書かれている。

【学風】

致道館教育の特色は、「天性重視・個性伸長」、「自学自習」、「会業(小集団討議学習)の重視」である。生徒一人ひとりの生まれつきの個性に応じてその長所を伸ばすことを基本に、知識を詰め込むのではなく、自ら学び、思考し、体得し、実践する学習経験の積み重ねを重視したのは、徂徠学の思想に基づくものである。

【学制】

数え年10歳で句読所(くとうしょ)(今の小学校)に入学、その後、年齢や就業年数に関係なく学力に応じて、終日詰(しゅうじつづめ)(今の中学校)、外舎(がいしゃ)(今の高等学校)、試舎生(ししゃせい)(今の大学教養課程)、舎生(しゃせい)(今の大学専門学部、大学院)に進級する。
終日詰以上は、自学自習と会業と呼ばれる小集団討議学習が中心であった。この会業は、生徒相互の切磋琢磨の場であり、学力の自己評価の機会でもあった。

致道館が出来てから数年後には風紀の乱れもなくなり、明治6年(1873)の廃校に至るまでのおよそ70年間、徂徠学を伝承し、且つ孝悌忠信を重んじて庄内武士道の根源を培い、多くの有能な人材を輩出した。

廃校後の致道館

廃校後も致道館の学風は、旧藩主酒井家を中心に受け継がれてきた。旧藩士たちは、酒井家の学問所「文会堂」に集まり学び続けてきた。

廃校から150年たった今でも致道館の御入之間(おいりのま)からは、子どもたちの素読の声が聞こえてくる。これからも、藩校致道館の学びの精神は受け継がれていく。

現在、創建当時の約半分以下にあたる約7千平方メートルの敷地には、表御門(藩主がお成りの時に使われた門)、西御門(教職員や藩役人が出入りした門)、東御門(生徒が出入りした門)、聖廟(せいびょう)(儒学の祖である孔子を祀る釋奠が行われた所)、講堂(始業式や会所として使われた所)、御入之間(藩主がお成りの時にお入りになった所)が残っており、藩校当時の面影を垣間見ることができる。

日本遺産「サムライゆかりのシルク」ストーリー構成文化財の一つにもなっている。

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