400thEpisode

農業の基盤

石原純一

(荘内神社宮司)

危機を乗り越えた酒井家の善政

酒井家3代忠勝公は、元和8年(1622)今から399年前、信州松代(現在 長野県松代市)より、出羽国荘内14万石の初代藩主としてこの地に来られました。

忠勝公は、領民の安居楽業を第一義とされ、先ず領内の検地を行いました。一例として、村々から遠く離れた飛島まで検地をされました。その時に持ち帰ったタブノキの苗は、家老服部瀬兵衛の屋敷(馬場町)に植えられ、堂々とした巨木となり県の天然記念樹になっています。

その際、実に寛大な測量であった事から、お百姓達はその恩徳に感謝し、測量に使った間竿(竹竿)を分け合って、これを神として祀りオクナイ様と称して田の中に祠を作り尊祟の誠を捧げていました。今でも、一年に一度は神社に持参され半紙を折った紙垂を着せています。忠勝公は「宮内大輔」の官位であったことから、中の「宮内(クナイ)」と称したのかと推測されます。

家老屋敷跡のタブの木
家老屋敷跡のタブの木
オクナイ様
オクナイ様

また、忠勝公は人口が増えたことから鶴岡を城下町として拡張しました。御城の周辺には侍屋敷(家老級・上級武士)、内川の東側には町人街、南側には寺屋敷を配置し、現在の十二町商店街の基礎を定めました。

鶴ヶ岡城
鶴ヶ岡城

舟運の湊町酒田には、米券制度を創始させて「米の国荘内」の基を築きました。また、因幡堰・中川堰・青龍寺川等の修理開拓を図るなど専ら領民の幸福を考えられ、現在も山形県内の他地方に比べても水利濯漑のすぐれているのは当時の政策のお陰であります。

9代忠徳公が家督を継承した頃は、元禄時代の華美贅沢で堕落した風潮が蔓延して、藩の財政は困難を極めて精神の緊張を欠き、町家は商売の方途を失っていました。農家は租税の滞納に田地を手放さねばならず、さらに御用金の催促に安堵の思いはなく、士族は借上米の為に日々の生活さえも窮していました。

加えて、数年に亘る天明の大飢饉にあい、荘内藩の危急存亡の秋でありました。忠徳公は、この最悪の事態を深く憂え一大決意を以て政治を行われました。

第一の政策として、藩主家族の身の回りの世話をする女中を減じ、さらに衣服を始め食費を切りつめられ節約に努め、藩費の大節約を実行しました。次に、農家の自立の根本方策として寛政8年(1796)藩からの貸付金3万両(今の金額にすれば3億円)、米60万俵を「下され切り」という大英断を図り、返さなくともよい事にしました。このモラトリアム的施策(債務の一定期間猶予)によって、農家の危急存亡の秋は救われ、さらに農業改良(肥料対策等)により改善され、遂に今日の「米の国 荘内」の基礎をなすことが出来ました。

忠徳公は、教養は「人間としての価値」を決定するものとして、藩校致道館を創始し、徂徠学を通じて藩士の資質を高め藩の要職に登用されました。また、領民の子女への学問を奨励し寺小屋の普及に心を用いられました。

その頃、地理学者古川古松軒が幕府巡見使とともに荘内に立ち寄られた際、領民の温厚な気風と豊かな人柄、潤いのある民家、肥満した馬等、全国を巡視した中で最も良い藩と、荘内の民情と酒井家の仁政は洵に羨ましいとほめ称えています。

それから20年後、天保11年(1840)には幕府の一老中の私欲により、正当な理由もなく10代藩主忠器公は、越後国長岡に国替えの命令を発せられた時、全荘内30万の領民は、父祖以来の恩義を感じ、天明・天保と続いた大凶作には特別な政策で救われた思いを忘れられず、酒井の殿様が離れることに反対し、幕府命令に対し領民が反旗を翻すという前代未聞の「転封阻止運動」を起こし、苦心の末様々な計略をめぐらし整然と行いました。

この運動により、正に江戸幕府始まって以来初の「お座りのお許し」を得たのであります。又、大義の無い戊辰の戦に於いては西軍の兵を迎えて、荘内領民は武士も町人も農民も一致結束して戦い、一兵たりとも藩内に入れさせませんでした。この誠心と強靭さは、我が荘内人の美風と共に藩主酒井家の仁政に培われた美点であります。

※「荘内」と「庄内」は同義語です。
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