400thEpisode

武士と開墾

山田陽介

(松ヶ岡開墾場 理事)

松ヶ岡の開墾と酒井家

「後田山開墾絵図 凌霜帖」松ヶ岡開墾場所蔵

明治5年3月、酒井忠篤は東京から鶴岡に帰省した。 忠篤は16歳の時、戊辰戦争を戦った荘内藩藩主として新政府軍に降伏。後に鹿児島に赴き、西郷隆盛のもとで兵学修行をし、明治4年、兵部省に出仕して陸軍少佐に任官した。時に20歳であった。帰省は、西郷らのはからいでドイツに留学することになり、父・忠発への別れの挨拶と祖先の墓参のためであった。

一夜、忠篤は忠発臨席のもと、城下の筬(おさ)橋の別邸に数百名の藩士を招き、酒肴で慰労した。藩士たちはこの年4月から赤川の河原地の開墾、8月からは後田山の開墾が待っていた。席上、忠篤はこの開墾の壮挙をたたえ、皆がこの開墾に励み、その初志を貫徹してほしい、自分は兵学研究のためにヨーロッパに赴くが、ともに国のために力を尽くそうと激励した。

前年、廃藩置県が断行されたものの、旧藩士たちにとって忠篤は中君(若君)であり、忠発は老君であった。その敬愛の情は、忠篤を送るに際して百余名から寄せられた詩文集「推轂(すいこく)集」に見ることができるが、実際に開墾に従事している中で詠まれた詩には一層の強い思いを伺うことができる。開墾の幹部であった和田光観の詩を引く。

  松岡にて君錫と賦す
 松林月落角声伝  松林月落ちて 角声伝う
 野火焼雲万壟連  野火雲を焼いて 万壟(ばんろう)連なる
 一別天涯多少思  一別天涯 多少の思い
 健児山下枕鋤眠  健児山下 鋤を枕して眠る
※君錫…和田光観と同じく開墾の幹部であった池田賚(たまう)のこと。
松林の向こうに月が落ち、(月明かりの下で続けていた作業止めの)角笛の音が響く。伐り倒した木や雑木などを焼く火が雲を染めて赤く高く燃え上がり、その明るさで、伐り開かれた土地が遠くまで連なって見える。遙かドイツにいる中君を思えば、万感の思いが溢れてくるが、若い開墾士たちはその思いを胸に、今日の疲れに鋤を枕にして眠っている。

明治5年8月17日(旧暦)から始まった後田山の開墾は、100町歩余を58日間で完成させた。その様子はまるで戦場のようだったと当時の記録に見える。翌年にはさらに200町歩余を開墾した。その間、老君・忠発は幾度となく足を運び、酒肴や菓子等を携えて開墾士たちを慰労した。この地を「松ヶ岡」と命名したのも忠発である。

松ヶ岡の開墾は、当時の士族たちの開墾の大半が失敗している中で、希有な成功例として語られることが多い。それは開墾の目的が士族授産というよりも、人としての徳義を大切にし、産業を興して社会に貢献するということにあり、その姿勢を貫いたからにほかならない。酒井家はその先頭に立ち、物心両面にわたってその事業と人々とを励まし続けた。開墾場初代総長・松平親懐の後を承けて二代目総長となったのは忠篤の三男・酒井忠孝であり、三代目総長は酒井忠明、四代目総長は酒井忠久である。明治から令和の今日まで、開墾場の歴史は決して平坦なものではなかった。苦しい時も進むべき道に迷う時もある中で、酒井家は常に開墾場を見守り、開墾場の人々も酒井家に心を寄せてきたのである。

開墾記念式の際の酒井忠久氏によるごあいさつ
男性たちが菅原兵治氏揮毫の「松風萬古」の大幟を掲げる様子

毎年4月7日は開墾記念日である。中学生以上の男性は早朝の作業に従事して先人たちの労苦をしのぶ。そしてその後に行われる式典では、西郷隆盛、酒井忠篤、菅実秀の三人の肖像画や写真を掲げてお祭りする。それは開墾から150年の今も大切な松ヶ岡の行事である。

(文中、敬称略)
※「荘内」と「庄内」は同義語です。
ページトップへ